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家への帰り路に考えることのあれこれ。

小学生の頃の将来の夢は、鯨でした。

とあるトンネル

小学生の頃、映画「私は貝になりたい」を観たときに思いました。

 

「僕は鯨になりたいな」

 

足は遅く、頭がいいわけでもない。絵も描けないし音楽のセンスもゼロ。
僕は、人生というものにカケラも期待していなかった小学生でした。

そのくせ人間関係には敏感で、家に帰れば両親や兄弟の顔色を窺い、
学校では友達に嫌われまいと必死に生きてた。

 

だから、
何の悩みも無さそうで、敵も無く、優雅に海を泳ぐ鯨に憧れていました。

でもそんな夢は、鯨の子供がシャチに食べられちゃうNHKを見た時に
完全に冷めてしまったわけだけど、当時の僕を端的に表すエピソードとして気に入っています。

 

そんな僕は小さい頃によく、
漠然と、そして圧倒的に、世界というものが恐ろしくなることがありました。

この "圧倒的に" というのが結構トラウマで、
今でも熱を出したときは、
何かとてつもなく大きな球状ものもに押し潰される夢を見るんです。

その大きさに為す術もなく、
ただただ恐怖と苦しみを味わう夢なのですが、
原因も対策も考えたことがなく、
なんとなくその時の精神状況が不安定な時に見るものだと思ってます。

 

子供のころといえば僕は、
自分の周りに "知らない世界" が延々と拡がっていることがなんとなく分かっていて、
そのことが恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
(先に紹介した悪夢は多分、これのせい)

当時は本気で、僕たちが生きているこの世界が虫籠のようなものでしかなく、
巨大な宇宙人が僕たちを地球で飼っているのだと思ってました。
(いまでも、その過程を否定しきれたわけではないが)

 そう考えると、
「大人」になった私は、"知らない世界" にひどく鈍感になった。
でも、それは僕だけじゃないはず。
きっとみんな、「大人になること」を勘違いして、
ただただ "知らない世界" に対して鈍感になり続けているだけなんだ。

だってそのほうがラクだし、楽しいし、気持ちが穏やかだもん。
だからみんな、"知っている世界" が中途半端に拡がって、
その世界を楽しむこと、維持することに一生懸命になっているだけなんだ。
いや、敢えて一生懸命になることで、
"知らない世界" の恐怖に気づかないふりをしてるだけなのかも。

 

ここまで考えて、一つのアイデアが頭に浮かぶ。
「そもそも私たちは、"知っているもの" しか知り得ないのではないか?」
だって、「僕」という存在は僕の経験値の集合体に過ぎなくて、
「その外のこと」は感知できない。
唯一、「その外のこと」を夢想することはできるが、
その夢想さえ、僕の経験から導き出される世界観に留まる。

この考えは全人類に共通して言えることだから、
全人類にとっての「その外のこと」は、誰にだって分からない。
「その外のこと」の存在を否定することさえ出来ない。
だって、「無い」ことの証明なんて、出来ないはずでしょ?

 

 

(これ、少し調べたら、カントの唱えたそれに近い考え方でした)

 

  

答えの無い問いを悶々と考えるバスタイムが好きな僕は、
この間ふと、自分の "小ささ" を思い出した。
そして、"知らない世界" の深さに改めて恐怖を覚えました。

 

だから、少しでもその恐怖を小さくするために、哲学を勉強してみようと思う。
まずはバカでも読める教科書を探さないとね。